Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

第一歩

  自治医科大学までは自宅から約20キロ、車で約40分の距離にある。通常なら十分通勤圏だが、所謂インターンの身分では通勤時間を取れるほど仕事は甘くなく、大学の至近距離にアパートを借りての生活となった。それでも、アパートは寝るだけの場所。それ以外は大学病院で過ごす過酷な勤務状況であった。仲間の中には、病院に泊まり込むことが多く、自宅に滅多に帰れないのが実情とも耳にした。全国的には、時折、インターン生の過労死も紙面に載ることもあり、それも頷けた。親としては、息子の無事を祈るだけであった。

 インターンは大学病院の他、指定された市中の病院で行うことも可能である。その場合は、1000万円近い月給が支給される。しかし、当時、大学病院の医局は5万円程度しか支給されないのが常識だった。有り難いことに、自治医科大学は、一般サラリーマンの初任給程度の給料が支給された。そのため、親は特に経済的な支援は必要としなかった。市中病院では戦力として使われることになるが、自治医科大学では、数ヶ月のローテーションで各科を回った。科によって繁忙に差があることを、門外漢の私たち夫婦は始めて知った。外科の手術に立ち会うと、10数時間も経ちっぱなしで、この間、食事も出来ないとのことだった。

 僅かな距離の場所に住んでいながら、なかなか連絡がつかなくなった。病院という特殊環境のため、携帯の使用が出来ず、電話連絡が付かないのである。一般電話は何時も留守、不安だけが続く毎日であった。

 
スポンサーサイト

やっと、肩の荷が

 長男は、長期入院をしたこともあったが、留年することもなく、無事に大学を卒業した。親は入学式も出席しなかったが、卒業式も出席しなかった。出たい気持もなくはなかったが、卒業時は24歳、立派な大人そのものであり、親の出番ではないと判断した。


 本当に不思議な制度だなと思うが、医師国家試験は卒業後、5月に行われる。自治医科大学の医局への入局が内定はしていたが、もし、この国家試験に合格しなければ、医師にもなれないし、内定も取り消しとなる。合格率は80パーセント前後で、国家試験の中では、合格率が高い試験のひとつではあるものの、そして、親としては、我が子を信じてはいるものの、不安が全くないわけではないわけでもなかった。

 長男によると、大学を卒業できない者もいる、そして、卒業はしたものの、国家試験に何年も合格できないでいる者も僅かにいるという。国家試験に合格できないと、卒業と同時に資格が取れるレントゲン技師や薬品の販売員にでもなるしか道がない、とのことであった。そのような者の親の苦労を想像すると、同情を禁じ得ない。この時点では決して他人事ではない話である。

 このような心配をよそに、無事、試験に合格して、予定通り、医局に入った。

棚からぼた餅

  長男は大学に進学する際に次のように述べていた。

「おそらく二度と地元に住めることはないと思う。」

 「白い巨塔」に代表されるように、医学部は学閥が強く、自分の意思では自分の将来を決められないとのイメージが親である私にもあった。長男との同居はこれが最後かと思うと、娘を遠方に嫁がせる親の心境となった。それでも、我が子の幸せのためには、やむを得ないと覚悟していた。

 また、長男は卒業が近くなって頃、親に申し訳なさそうに、「卒業して医者になったとしても、所謂、2年間のインターンの期間中は、親に経済的援助を仰げなければならないかも知れない。その際はよろしくお願いします。」と洩らした。

 数年前に、インター制度が改正され、ある程度自由に研修先を選択できるようになったし、また、最低限の生活費も保証されるようになった。しかし、長男の時期は、一般病院での研修は別にして、ほとんどの大学の医局での研修は、月額5万円程度の収入しかなかった。研修医は、労働基準法の対象外であり、睡眠の時間以外は、ほとんど仕事をすることを余儀なくされていた。過酷な労働環境にあって、かつ、経済的な保証もない制度に、怒りを感じないではおられなかった。


 幸運なるかな親の住む県には特殊な医科大学があった。私立の形を取ってはいるが、全国の県が金を出し合って設立、運営している、自治医科大学であった。この大学では、学費、生活費の一切を大学で支給する代わりに、卒業すれば、インターン研修を受けないまま、出身の県の僻地勤務等を義務付けられている。そのため、自分の大学出身者の中に研修医がおらず、研修医を広く募集していたのである。しかも、懇切丁寧な研修が受けられ、その上、生活出来るだけの給与も支給される。長男は、結局、出身大学での研修を棄て、自治医科大学での研修を選択することにした。

 諦めて、期待していないことが実現する、親としては「棚からぼた餅」のような喜びを感じた。
 
 
 

志望をひとつ実現する

  東京大学は、教養部は駒場にあるが、ごく一部の学部を除いて、専門は本郷キャンパスとなる。次男は本郷の近くに転居したいと希望して、3年生になるときに大学から徒歩15分程度の新築マンションに転居した。若干家賃は上がったが、交通費がかからないので、その分は経済的だったし、時間の節約にも繋がった。駅も歩いて5分、生活に密着する店舗も多く、次男は新生活を楽しんでいる様子だった。

 次男はロボットを開発する学科に進学した。時代もあろうがロボット関連の学科は、人気が高かった。教養部での成績順に希望が通るシステムとなっていて、大学のイメージをよそに、点数や偏差値が出される。次男は心がけが良かったのか、第一志望を実現させた。


 次男に対し、偉いなと思っていたことがある。それは、彼が大学での成績一覧表の写しを、時折親に送ってきていたことである。私自身にもそのような経験はなかったし、長男も実行したことがなかった。実際のことは分からないが、親に経済的な負担をかけているという意識や、自分が頑張っているのを知って欲しいという意識だったのではないかと、推察している。


 ともあれ、我が子が志望をひとつ実現したことは、親としても嬉しいことであった。




 

追記を表示

「我が家は貧乏じゃないんだね」

 次男が進学して1年くらい経った後、次男がしみじみとした口調で洩らした。

 「我が家は貧乏じゃないんだね」

 次男の幼なじみに、親が駐車場を営む幼なじみがあった。県庁所在地の中心街に、約150台の駐車スペースを持つ家庭だった。祖父は戦前、「薪売り」をしていたという人で、薪売りから材木商となり、財をなした。郊外に材木店を移し、材木置き場を駐車場に替えた。直接は聞いたことはなかったが、祖父は「金は使う物じゃない」が口癖だという評判だった。次男の友人の父親は、高級車を乗り回すような人で、我が子には好きな物を買い与えていた。特にテレビゲームのソフトは新発売になる度に買い与えていた。一方、我が家は共稼ぎとは言え、サラリーマン家庭。とても真似は出来なかった。そのような中で、次男は、自分の家は貧乏人なんだという認識を持ったようだった。そして、中学生や高校生になっても、その認識は修正されなかったらしい。そう言えば、高校時代の一番の親友が、映画館やパチンコ店を経営する家庭の子であった。

 ところが、大学に入って、仲間にはせっかく日本随一の大学に入学したものの、経済的理由で最初から休学した者や、アルバイトに精を出さざるを得ない者、長期休業中も、旅費が無くという理由で、帰省をしない者、そして、仲間が住むアパートを訪問する等して、やっと実家の経済力に対する認識の修正を加えることが出来たらしかった。次男はいかに自分が恵まれているかを話すようになり、親に感謝の言葉を表すようになった。

 次男は長期の休みに、経済的な理由で帰省できない友人を数人連れて帰省した。妻は精一杯の料理を作って持てなし、夜はカラオケに連れてゆき、私は休暇を取ったりして観光地を案内した。
東照宮等の案内した時に、友人は掲示された入場料を見て、「僕は入らなくて良いです」と言い出した。入場券を買って手渡すと、申し訳なさそうにしながらも、喜んで見学していた。

 よく、「東大は家庭的に恵まれていないと入学できない大学」とマスコミが報道するが、平均的にはそうだったとしても、個別的には必ずしもそうではないのが実情である。

かるた部へ

  結果的に、次男は大学でのサークルは、かるた部に加入した。高校では文化部に所属していたので、せめて大学では、テニスとかバトミントンなど、運動部にでも入るとよいのにと思っていたが、高校の延長となった。首都圏の大学のサークルは、私の出身大学である駅弁大学と大きく違っていた。というのは、大学内だけでなく、お茶の水女子大や東京女子大などの大学と一緒に活動していた。ほとんど男子で占められる大学故、これもひとつの知恵かな、と妙な感心をさせられた。門外漢の私でも名前を知っている、その座を長く保っているかるたクーンも一緒に練習しているというから、流石との印象を受けた。

  大会が全国各地であり、北は北海道、南は九州まで、よく旅行していた。次男は「かるた部は別名旅行部だからね」と洩らしていた。学生らしいのは、各駅停車の列車をよく使っていたこと。部員との会話や飲食、そして、人情に触れながらの旅は、それなりに楽しいものだったらしい。


 2年生になって部長に選出された。管弦楽団の団長となった長男に続き、次男も100人前後の集団のリーダーになったことは、親にとっては内心ニンマリすることであった。3年生ではなく2年生がこのような役割を負う習慣は、いかにもあの大学らしい。先輩、後輩をまとめ上げるのには、それなりの大変さもあるだろうが、その後、次男からはその苦痛を耳にすることもなかった。

 
 

次男の大学受験

 次男には長男と同じ医学部に進学して欲しかった。しかし、彼の選択は「理1」だった。彼の選択に影響を及ぼしたのは、長男が読むことを勧めた1冊の本であった。題名は「医学部を受験する前に読む本」。その中には、医師が必ずしも経済的に恵まれず、生涯賃金としては、一流企業の社員よりも劣っていること、そして、労働時間が長く、かつ過酷で、家庭生活の犠牲が余儀なくされること等が書かれていた。

 「兄弟が力を合わせ、支え合えれば、大きな力になる」と説いて、親としては長男と同じ道を進んで欲しいという希望を持っていることは一応伝えたが、次男の選択は「僕は家庭を大切にしたい。」ということだった。人生の選択はあくまで本人がするもの。親としては次男の選択を尊重するしかなかった。

 共通一次は何事もなく通過。二次試験が終わって帰宅した次男は、後期試験の問題集を買って来ていた。化学の試験でうっかりミスを犯し、最後の1枚を無回答になってしまったと、青ざめた顔をしていた。

 実は彼は早稲田大学理工学部を受験して合格はしていた。しかし、彼は第1志望校しか進学する気はないと頑なにいうので、入学金等の費用の納入はしていなかった。もし不合格となれば浪人必至である。多少不安が過ぎったが、1教科くらいミスしてもなんとかなるのでは、という根拠のない信頼感が親にはあった。

 発表の日、彼は友だち数名と連れだって受験校に赴いた。職場に「合格したよ」との、はにかんだ口調の電話があった。

 


二人三脚

 入院中の長男の枕元を時々訪問し、洗濯物を持ち帰えるなど、遠隔地に居住する親に代わって何かと世話をしてくれた女性がいた。サークルの管弦楽団の1年後輩だった。彼女は練習に通いきれないとして、団長に選出されたばかりの長男に、退団意向を洩らした。長男の「僕のために続けてください」との一言で、交際が始まったばかりであった。

 2か月間の入院治療がほぼ終わった頃、主治医の助教授から親同伴で説明したいと呼び出された。
説明の席に長男の希望で、彼女も同伴した。実は高校時代まで、生体検査の結果について、親である私達夫婦は、その概要は伝えても、そのままの数字をそのまま長男に伝えたことはなかった。助教授は、決して芳しくないその数字と判定をずばりと伝達した。長男は冷静沈着な部類の男だが、これを聞いたその表情に狼狽を隠せなかった。彼女が同伴していたのでは尚更だったに違いない。

 小学校の時から、づっと通院を同伴してきた様々な想い出が、一瞬のうちに頭の中を駆けずり回った。私から次の言葉が発せられた。

 「私と長男は、これまで二人三脚で生きてきました。これからも変わりません。」

 この言葉が口から離れた瞬間、馬鹿なことを言った、と思った。これまでは親との二人三脚だったとしても、今後は配偶者となる人との二人三脚になるはずだから。

 約6年後、彼女は長男の妻となった。






 

自己決定 

  2年生から3年生に進級する春休みの約2か月間、長男が大学病院に入院した。この間、扁桃腺やアデノイドの手術や、副作用の大きい副腎皮質ホルモンの大量投与の治療、生体検査等を受けた。

 扁桃腺の手術は小学校の高学年の時に受けていたが、残っている部分があるということで、再手術をすることになった。扁桃腺炎が腎臓病の原因になるという学説があり、それに乗っ取っての手術だった。副腎皮質ホルモン投与の治療についても、小学校6年生のころから約1年間、これを受けたことがあった。この治療には、顔がお月様のように膨れてしまったり、毛が濃くなる等の副作用がある。先の治療では、副作用はしっかりと出現したが、肝心の療効果は見られず、医師との相談の上で中断した治療の経過があった。生体検査についても、中学校までに、節目節目で3回受けてきた。今回、治療を担当する助教授によると、今回の治療の効果は、期待薄との判断であった。

 どれもこれも明確な治療効果を期待できない中での長期の入院や治療に、私は必ずしも積極的ではなかった。そのことを長男に表明すると、長男は次のように答えた。

 「僕は腎臓の専門医を志している。医師になったら、患者さんに副作用が大きい治療も勧める場面も出てくる。自分が逡巡していたのでは、患者さんに勧められない。多少とは言え、可能性があるのなら、僕はそれに進んで挑戦したいんだ。」

 既に成人に達していた長男の治療方針は、長男自身が決めることである。覚悟はしていたが、長男の言葉は妙な説得力があった。

 長男は自分の持病の分野について、必死に勉強している様子だった。大学の同学年生からは「腎臓のことから○○(長男の名)に聞け」と言われいた。そんな長男の決意に、親は何も言えなかった。
 



優等生だって

 次男が高校2年の時、次男の同学年の生徒を持つ母親と一緒に働くことになった。職場に育児休暇の職員が出たため、OBに私が頼んで、代替の臨時職員として助けて貰うことになったのである。このOBのご主人は、東大医学部卒で、大学の教授をしていた。4人の子供を持ち、次男の同級生は4人姉弟の末子、長男で、姉二人は医学部の学生だった。長女は薬学部の大学院を卒業してから、医学部に入り直したという経歴だった。ご主人は海外勤務(留学)の経験もあった。4人の子ども達は、いずれも帰国子女であった。

 その末子である同級生は、英語が抜群で、教科による得意不得意や、テストによっての変動はあったが、おおよそ学年で5番前後の成績を上げていた優等生であった。間もなくして、母親であるOBからその同級生についての親としての苦悩を聞くことになった。

 夫は同じ医学の道を歩んで欲しいと期待しているが、本人は映画の分野等芸術の道を志望しているとか、精神的に不安定で、特に教師への不満が大きく、時に「殺してやりたい」等と不満をぶちまけることがあるとか、広く友人を持たないこと、等々であった。

  これを聞いて私は驚いた。権威を持った父親を持ち、その期待通りにはなっておらず、苦悩しているのは、簡単に想像が付く。しかし、教師への強い不満を持っていて、精神的に不安定であことなどはイメージが出来なかった。

 我が子にも、似た部分があった。次男も教師の一言に過度に傷ついたり、教え方への不満を持っていたりしていた。所属する高校では、実力テストでは平均を100点満点で37点を目標にテストの内容を設定しており、難問が多く、問題によっては正解者ゼロという問題も数多くあった。塾も通わず、家庭教師もない次男は、進んで教師に教えを請いに行っていたが、どうしても理解できず、「本当はあの先生は理解できていないのかも知れない。」等と洩らすこともあった。家庭学習で、どうしても分からず、机を叩いて悔しがるのを時々耳にしていた。こういった様子を情報交換する機会は、双方の親にとって非常に役立つ体験だった。

 優等生というと、どうしても悠々と学習したり、生活したりしているイメージが付きまとう。しかし、優等生の多くは過酷な勉強や競争をしているし、それに、何と言っても成績と人格的成長は、相関関係がない。それなりに苦しい生活を送っているのである。ひっとすると、教師はそれを見過ごしているのかも知れない。場合によっては親も見過ごすのかも知れない。


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。