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授乳とおむつ替え

乳児の睡眠は、大人の周期と異なる訳だが、昼間はともかく、夜泣きは職業を持つ親の生活のリズムを壊すことになる。妻は出産の2か月後に職業に復帰したが、それに伴って母乳は徐々に出なくなり、人工乳への切り替えを余儀なくされた。深夜、特に冬の授乳は大変である。長距離を電車に揺られて帰省すると、長男が泣いている声が耳に入っても、身体が動かない。妻が授乳している様子に申し訳ないと思いつつも、一人布団の中から出られない私がいた。

また、私は長男のおむつを交換したことも、数えるほどしかなかった。
仕事を通じて、私は不潔恐怖症の母親に数え切れないほど会っている。その中で、特に 強く印象に残った母親がいる。母一人子一人の家庭で、思春期を迎えたその男の子が、 こんな家には住んでられないと家出した事例だった。

  家庭訪問して玄関の扉が僅かに開けられると、ひどい悪臭が襲ってきた。家の中に犬や猫が10匹前後飼われており、彼らは下の部分が破れた障子や襖から自由に行き来していた。母親が閉じこもりの生活をしていたため、彼らは糞尿を家の中で済ませていたのである。この母親は不潔恐怖症であった。よく見られる症状だが、手を数時間も洗っていたり、同じ衣類を何度も何度も洗ったりしていた。男の子が生まれたものの、汚く感じておむつ交換が出来ず、乳児期まで親族に預けて育ててもらったのが、家出した男の子だった。

「おしっこ」はともかくとして「うんち」の交換は、この事例の母親でなくとも、苦痛を伴うはずである。極めて例外を除いて、母親達はおむつ交換を放棄することなく、その役割を全うする。授乳とおむつ交換の多くを回避した私が特殊かと言えば、決してそうではない。平均的な父親と言っても過言ではない。

その後も、繰り返し繰り返し観念することになるのであるが、仮に離婚でもすることになれば、子の親権者は母親である妻に勝てないと、この時期から痛感するのであった。 
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父親不在の乳児期

 神社へのお参りを済ませて早々に勤務先に戻った。当時、東北新幹線も東北自動車道も出来ていなかった。おまけに当時の給料は安く、単身赴任手当もなかったため、妻子の許への帰省はままならず、隔月程度しか我が子に会えなかった。その際に我が子を抱くと、火がついたように泣かれた。

 私は非行臨床に関まる仕事をしていた。非行を犯して逮捕され、鑑別所に入所して審判を受ける少年の中に、彼女や妻が妊娠中であることは珍しくもない。そのような少年が、「先生、彼女が妊娠中なんです。彼女にとっても、生まれてくる子どもにとっても、父親である私が必要なんです。今度は必死になって働きますから、少年院には入らないですむよう、よろしくお願いします。」と述べることがしょっちゅうあった。当時は自分と同様の境遇にある少年の言葉に同情した。しかし、その後の子育て経験から、母親さえ精神的にある程度安定していて、また、刺激を与える存在が他にありさえすれば、乳児期にある子供にとって、父親の存在はあまり必要がないと考えるようになった。

 妻は、私の両親との同居生活を選択した。妻は教育に関わる仕事をしていたが、当時は制度としては育児休業制度が無かったわけではないが、実質的には普及しておらず、取得が簡単ではない状況があって、妻は姑夫婦の援助を受けることを選択した。

 私の母は元々は病弱で、よく病床に就いていた。ところが、子育てを担当するようになってから、病気をすることがめっきり減った。病気などしておられない環境になった。私の父は、余り子供は好きではないほうだった。ところが、子供と孫は違うのか、母に協力し、夫婦揃って懸命に保育を担当した。しかし、それは妻が帰宅するまで。妻が帰宅すると、私の両親は子育ての一切を妻にバトンタッチした。
 
 結果的に、父親である私は子育てにほとんど関わらない乳児期を過ごした。

第1子の妊娠と出産

 私たち夫婦が結婚したのは、私が23歳、妻が22歳だった。妻は未だ学生、余りにも若く、私は夫にはなれても、父親にはなれないと感じていた。婚姻して3年目、私は職場の研修所に入り、別居生活となった。そんな夏、妻が妊娠したかも知れないと言い出した。未だ心の準備が出来ていなかった私に狼狽がなかったと言ったら嘘になる。職場にその旨報告して帰宅したところ、なんと、妻からあれは間違いだったと言われた。今更職場に訂正報告をするのも面倒なので、改めて覚悟を決めて、子供作りに挑戦することにした。その結果、その月に妊娠した。 
 
 翌春、私は妻を栃木県に残して青森県に転勤となった。出産予定日は5月中旬。私はゴールデンウイークに続いて長めの休暇を取り、出産を待った。ところが予定日を過ぎても、一向に生まれる気配なし。やむなく赴任先に戻った。

 入院したり、退院したりしながら、予定日を1週間以上が過ぎて、吸引分娩でようやく長男が出生した。駆けつけたかったが、長期の休暇を所得してしまったため、行きたくとも行けず、我が子との対面は、お七夜の祝いを兼ねた10日後の週末となった。吸引されてようやくこの世に出てきた長男は、縦長に伸び、頭には絆創膏が貼られていた。自分の顔にそっくりにも見えたが、猿にも近いと感じた。
我が子との初対面して、これで自殺するという選択肢が自分にはなくなった、と感じた。

 遅めの出生届を提出し、祝いの席の準備に入った。
女の子の名前は考えていたが、男の子への思いが深すぎて、なかなか決心が出来ず来客が集まる時間寸前に、ようやく名前が決まった。

 出産時どころか、出産後にも直ぐに駆けつけなかったことでは、妻に長く非難されることに、命名に時間を要したことでは、後にこの経緯を話した長男の嫁にも責められる結果となった。

はじめに

 A.アドラーは精神分析の祖というべきフロイドと共に研究していた精神科医であった。フロイドが「性」が人間の活動力の源と主張したのに対して、アドラーは「優越」こそが原動力だと主張して袂を分けた。

 フロイドが沢山の論文を残したのに対して、アドラーは世界で初めて児童相談所を設立したように、実践家で、大した論文は残さなかった。しかし、その高弟と言うべきアルフレッド・ドレイカーや、その弟子達にその思想は引き継がれ、今日に至った。

 私がアドラーの子育て理論に共感したのは、親は経済を握っている故に、平等にはなり得ず、だからこそ一層の平等を心がけ、禁止、命令を排するべきであるとの考え方であった。時に次男が生まれて数年後のことであった。私は、可能な限り、この考え方を実践することを決心した。

 その次男が小学校に入学して間もない頃、PTAの役員から父親の座談会への出席を要請され、これに出席した。当時、世界児童憲章が批准されたばかりで、教師による体罰の厳禁が強調されていたころだった。父親に叱って欲しいとうのが、学校の狙いで、討論の概要を広報誌に掲載するとのことであった。12人の出席者の中で、父親は私一人であった。当初はストーリーに沿った発言が続いていたが、父親代表して心構えを聞きたいと司会者の指名がきた。私は叱責だけが父親の役割ではない、むしろ、気持ちを聞くなど、日常の勇気付けの重要性を述べた。最初は戸惑っていた母親の中に、ひとり、ふたりと賛同者が増え、次第にそれが大勢となった。それを聞いていた教頭が苦虫をつぶした顔で、「お宅のお子さんの顔が見てみたいのもです」と呟いた。

 その後、我が子は中学校を卒業する時には、教育委員会から模範生徒の表彰を受け、高校、大学く時代はふたつの部活で活躍し、長男は医師に、次男は研究者になった。 
 私の中では、アドラーの子育て理論は正しいとの確信に至った。

このブログは、私の回想的子育て実践記録である。
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