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子ども達の来訪

 赴任先に子ども達から葉書が届いた。頑張ってくださいという激励と共に、余白に父親の姿が絵に描いてあった。その後も、近況を綴る手紙が時々来た。
 長男は、父親の単身赴任をテーマにする作文を書き、それを教育委員会の作文コンクールに応募し、優秀賞に輝き、優秀作品を掲載した雑誌にも載った。特に第1子というものは、母を守る騎士の役割を取ろうとする。作文の内容は、そんなことを思わせるものだった。父親の不在は、長男を少し大人にしたようだった。
 初めての夏休み、妻と子ども達が宮古を訪れてきた。私は盛岡と宮古の間の川井まで車を飛ばして迎えた。陸中海岸を家族が揃って散歩した。場所は忘れたが,岩場の遊歩道に波が押し寄せてくるところがあった。次男はそこがすっかりお気に入りの場所となって、最初の夏休みの日記に登場した。宮古の何気ない町並みも、家族と一緒に歩くと、新鮮な美しいものに思えた。
 初年度の年末年始は、仕事の都合で帰省できず、急遽、家族が宮古に来ることになった。年末は田老の公共の宿に宿泊した。初日の出と共に、大漁旗を掲げて一斉に母港に戻ってくる様を、家族揃って田老の断崖の上から眺めた。
 夏も冬も子ども達は、戻る時になると熱を出した。宮古の中心街にはある工場があって、その煙突からは黄色の煙が出ていた。これに慣れず、抵抗力がなかったことがひとつの原因だと思われた。その御陰で、帰宅が予定より延びた。
 会うときは嬉しくとも、別れは辛い、親子の出逢いだった。

 
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シリーズ科学の本

  単身赴任をするようになって間もなく、子ども達に化学、物理、生物など、科学に関 する子ども向けの本、全巻50冊の本を買った。作りつけの1軒半の本棚2段がその本で一杯になった。
子どもが欲しないのに物を与えるのは大体ろくなことがない。私は学生時代に親族が営む本の販売店のアルバイトをしていたことがあった。所謂本屋ではなく、営業でシリーズになった旅や美術や学習に関する本を販売したり、納本したりする仕事である。学生アルバイトとしては、高額の収入になった。販売後の顧客との接触の中で、シリーズものを一括購入した場合に、その後、如何に読まれないか、体験的によく知っていた。 固い真面目な本ほどその傾向が強い。それを熟知して購入したのは、単身赴任の焦りや贖罪もあったかも知れない。

  ところが、発達段階の時期がよかったのか、子ども達はこの本を実によく読んだ。文章を読む力が十分育っていない次男には親が一緒に読み、易しく解説したりもした。そのようにして全50冊を読破するのにそんなに時間を要しなかった。そして、その後も これらの本を何回も何回も読んでいった。
私達夫婦は共に文系だが、子ども達がいずれも理科系を選択することになったのは、ひとつにはこの本が影響したと思われる。

  その後、子どもに買い与えたシリーズ本に「漫画日本の歴史」がある。長男も次男も 大学受験には日本史を選択することになるが、親が買い与える本は、子どもの将来に大きな影響を与えることになる。


単身赴任の功罪

 私が宮古に転勤した時に、私とアドラー心理学を学んだ後輩も静岡県に転勤となった。その後輩は、敬虔なクリスチャンだった。その奥さんは元看護師だったが、子どもを儲けた後は、家事に専念して3人の女児を育てていた。私が単身赴任することを選択したことを伝えると、温厚な彼が血相を変えて「家族が別々に生活するなんておかしいではありませんか」と抗議してきた。正直に単身赴任を決断した経緯を説明したが、それでも納得できないと真剣に述べていた。

 北に南にそれぞれ赴任して2週間が経過したころ、後輩から電話があった。その声は、なんと涙声であった。何事があったのかと思いながら聞いてゆくと、子ども達が新らたな地の人間関係に馴染めず泣いている。子ども達に申し訳ないことをした。単身赴任はおかしいと言ったが、それは子ども達のためには正解だったように思う。心得違いをしていたと嗚咽しながら述べた。

 それから彼は、住居探しを始めて、1,2年後に土地家屋を求め、その後は単身赴任をするようになった。

折り紙

私は戦後のベービーブームに生まれた団塊の世代に当たるが、その子供達も第2次ベビーブームと呼ばれるように比較的数が多く、子供会活動も活発だった。その活動の一環として「少年の家」等の公共施設に宿泊しての旅行などを行った。「少年の家」では様々な教育的活動を用意していている。その中のひとつに「折り紙教室」があった。地域のボランティアを講師に招いて、子供達に折り紙を教えた。一通りの課題をこなした後、「これは少し難しいのですが」として「鹿」の折り紙を紹介した。保護者も一緒に挑戦したが、大人でも難しくて、悪戦苦闘を余儀なくされたが、子ども達の中で、唯一人長男が完成させた。ちょっと鼻高々の心地よい体験だったかも知れない。

帰宅してから長男は高度な折り紙の本を買ってきて、折り紙への挑戦が始まった。次男もそれにくっついていった。程なくして、長男も次男も学校で「折り紙博士」の称号を与えられるようになった。
元々「折り紙」については、妻が知っている折り紙を子供達に教えたり、簡単な本を買ってきてそれを参考に一緒にやって遊んだりしていたはいた。その体験が下地にあったことは間違いない。それにしても、子どもが強い興味関心を持ったときの、その伸長には目を見張る物がある。親が放って置いても勝手にひとりで研究して伸びてゆく。

親の役割は教えることにあるのではなく、子ども達に感動の出逢いを与えてやることにあるのではないか、そう感じさせた出来事であった。ついでだが、「折り紙」は、子どもの創造の能力を高めるのには、非常に有効である。作る対象を吟味したり、モデルと自分の作っている物を対称したりする能力や、忍耐力そして、手先の器用さの育成等、様々な能力が伸びてゆく。恐らく、脳そのものの発育にも寄与する遊びだと思われる。

癖や弱点のひとつやふたつは 

帰省して次男の症状を目の当たりにして職場に帰ることは、以前より増して辛いものがあった。ある日、盛岡から宮古までの高速バスの中で、親交のあった児童相談所の所長と一緒になった。誰かに話をしたい心境もあって、次男のチックについて話をしてみた。所長は次のように答えた。
 「ま、癖や弱点のひとつやふたつはあったほうが自然ですよね。そのほうが、子供が大きく伸びる糧になるかも知れませんしね。」
即効的な効果のある治療法でもないかな、と思っていた私は多少拍子抜けした気分に陥ったが、それはそれで一理ある言葉である。また、重々承知していることでもある。 「紺屋の白袴」の言葉の如く、親というものは、我が子のことになると冷静さを失い、増してや悠然と構えてられなくなるものである。所長の言葉で我に返ったような気持ちもなった。医師は家族の診察、治療は行わないのが原則と聞くが、それには相当の理由があるように思われる。
私は職業柄、日常的に心理テストを実施してきて、心理状態や人格を診断してきた。その体験の中で、いつも感じていたことがある。それは、テスト結果の全てが標準に収まっている人が好ましい人格像かと言えば決してそんなことはなく、偏りがあるからこそ、その人らしさ、つまり、個性があるのであって、その人の魅力にも繋がるということである。
私は我が子に標準的な人間になって欲しいと考えていたわけではなかった。児童相談所長の言葉は、ふと、そんなことを思い出させた。

次男のチック症状出現

私が単身赴任をして間もなく、次男にチック症状が現れた。目のパチパチ、口の変形、爪かじりと、その症状は凄まじく、見ているこちらが辛くなるほどだった。その症状が現れた原因というかきっかけというか、それはかなり明確だった。
 私が宮古市に転勤する前の1年間、私達は夫婦でソーシャルダンスを習っていた。私が就職して初めて出来た友人で、この友人には、その後私達の結婚式の際に司会をやってもらったのだが、その弟夫婦が八戸でプロの教師をしていた。その縁で、1年弱、私だけが弟夫婦が営むダンス教室で習ったことがあった。そして約10年を経て、宮古に転勤する前の1年間、学生時代に本格的にダンスをやっていた上司と巡り会った。二人を中心に公民館を借りて、4,5人程度の人数で習い始めた。その時に女性がいないということで妻も借り出された。妻は私以上にダンスが好きになった。私の転勤などで練習の機会を失った妻は、私の勧めもあって、プロの教室で本格的に習い始めた。私が帰郷すると、家の中で夫婦のダンスの練習が始まった。それを見ていた次男は、自分も加わりたいと夫婦の間に入ろうとする。 3人で遊技のようなダンスをやって、次男が満足すると夫婦で練習を再開しようとするとまた次男が間に入ろうとする。また次男を加えて遊技。そして夫婦の練習。なんとその翌日にチックが始まった。
 次男にとっては、自分が阻害された外傷体験となったのだろうし、また、母子の一体感を崩す外部の侵入者が現れたことでもあったのだろう。これは専門家でなくとも容易に分かる、明確な外的原因であった。私達は子供達の前で練習することは控えるようになり、親の愛情が伝わるよう極力配慮した。
しかし、顔面のチック症状は、数ヶ月から半年程度で消失したものの、爪かじりの方は成人するころまで続いた。 

再びの単身赴任

  実は、次男が小学校に入学する前に、私は岩手県の宮古市に転勤となり、再び単身赴 任となった。それまでの経験で、単身赴任には嫌気がさしていた私は、妻に一緒に行き たいと相談していたところ、妻は簡単にそれに賛成した。
  早速、妻が勤務する学校の校長を訪問して事情を説明し、退職意向を表明した。校長 はこれを受け入れた。帰宅して早速二人の子供に転勤や揃って転居する方針を伝えた。
それを聞いた長男は、「おじいちゃんやおばあちゃんはどうなるの」と聞いてきた。祖父母は残ると説明したところ、「おじいちゃん、おばあちゃんが可哀想だ。おじいちゃん、おばあちゃんが残るのなら、僕は行かない。おとうさんとおかあさんの二人で行って」と答えた。それを聞いていた次男もこれに賛意を示した。
 まさか子供を残して夫婦だけが転居するわけにもゆかないので、その足で再び校長を訪ね、妻の退職意向を撤回して、私の単身赴任ということになった。管理職としての赴任であり、いつ再び地元に帰れるかは、見通しがはっきりしない。無期懲役を言い渡された心境で赴任した。
それから間もなく、次男の小学校への入学があった。着任早々休暇も取れず、その入学式には妻が出席した。私は次男宛に祝電を打った。電報を開くとオルゴールの音楽が流れるものであった。帰郷すると、その電報が学習机の上に貼り付けてあった。
考えれば、子供にとって私の両親は、言ってみれば育ての親であり、親以上の存在だったのかも知れない。有る意味では、親よりも祖父母を選ぶという言葉は、何よりのプレゼントであり、それまでの苦労が報われる子供達の態度だったように思う。

学級崩壊

  小学校の中学年に当たる時期を心理学ではギャングエイジという。友人と徒党を組んで、冒険的な活動を好んでする。この時期となった長男は、正に思う存分に遊び回っていた。
  4年生の2学期のこと、初めて授業参観に出席した。授業を覗いて度肝を抜かれた。社会科の授業が行われた。ところが、先生は説明はしているものの、子供達は、ある者は席を離れて相撲やレスリングのように組み合って格闘しているかと思うと、席に着いている者も、消しゴムを投げ合って遊んでいたり、大声を出して話をしたりして、誰一人として授業を聞いている者がいないのである。ほとんど休み時間の光景と変わらない。保護者である私が先生の言葉を聞こうとしても、騒がしくて聞こえないのである。先生は児童に注意を与えるでもなく、生徒に質問して答えさせるでもなく、一方的に説明だけを続けていた。先生の目は児童達を見ておらず、中空を彷徨っていた。授業参観後の学級懇談もなかった。
  帰宅してから、担任の先生の勤務歴を調べてみた。何とほとんど毎年、転勤していた。前任校の教師を通じて情報を入手すると、同教師は精神的な問題を抱えていることが判明した。
私は、教育委員会を訪問し、指導主事に授業光景を説明した。学校名も教師名も伏せた。指導主事は、事実関係をそのまま受け取り、保護者が騒ぎ出すしか方法がないと回答した。クラスには現職の市会議員の子弟が在籍していた。私はその奥さんに電話して授業参観の感想を聞いてみた。勿論、呆れかえっていた。教育委員会からの助言の内容を伝達すると、翌日、担任の先生は副担任となり、クラスを持っていなかった学年主任が担任となった。
 私は、半年間もの間、学校での実情を把握せず、放置してしまった親としての責任を感じていた。長男はその間、家庭でも勉強らしい勉強はしなかった。しかし、その後の経過を見てみると、この半年間が決定的な障害になったかと言えば、そんなこともなく、逆に親密な友人との関係を作って遊び回った結果、簡単には得にくい交友関係の学習が出来ていた。
 子供の懐は親や一般社会が考えるよりもずっと広い、と感じ入った次第である。

金銭管理能力

  無謀運転をして自分の愛車を全壊させたある少年がいた。その車両は高排気量で、350万円もする高級車であった。車両保険への加入はなかったが、その少年や保護者に私が会った時には、親にまた同額の車を買って貰っていた。皮肉混じりになってしまったかも知れないが、「お宅はお金持ちですね」と感想を洩らしたところ、同伴した父親は、「これで親の貯金は使い果たしました」と頭を掻きながら述べた。
 この10年位前から、青少年の関心は車から携帯電話へと変化してゆき、非行などの問題行動の形も変わってきている。一時期、高額の携帯使用量が問題となった。月額10万円近い料金を請求されて、親は激怒して携帯電話の使用を禁止し、これに抵抗する子供達との間で激しい葛藤が繰り広げられた。その後、メールの普及や料金体系の改善でかなり改善されていったが、それでも有料サイトの利用で高額の料金を請求され困惑している事例も散見される。                                                                                                                                                                                 このような事例を調査してゆくと、学童期以降に子供達に金銭管理をさせていない事例がほとんどである。小遣いを与えてこなかったという事例も少なくない。
アドラー心理学の子育て理論の最大の売りは「禁止しない」「命令しない」にあることは既に説明した通りである。場合によっては「放任」ではないかと考える人もいるかも知れない。これは全くの誤解である。ある程度重要な問題や、迷うような問題については、親は出来るだけ横の関係から、親としての意見は述べる。しかし、行為を選択するのは、あくまで子供本人なのである。このことが重要であり、これが正しく捉えられておらず、親の意見が優先されては、結局は「強制」そのものになってしまう。
 子供は選択の自由を与えられている代わりに、自己の行為の責任の多くを自分で取ることになる。
小遣いの管理、すなわち金銭管理を子供が自分で行うことは、自己責任の最初の訓練の場である。試練の場と言ってもよいかも知れない。親の管理、親の指示、命令に従わされて育った子は、自分で責任を取ろうとしない。親に服従してきた自分には責任はなく、悪いのは親なのである。

お小遣いの金額調べ 

次男が小学校に入学して、最初の授業参観と学級懇談には、例によって私が参加した。学級懇談の席で、事前にアンケートしてあったお小遣いの金額の集計が発表された。我が家は月額3000円と回答したが、実は私の両親が小遣いを与えることもないわけではなかったので、控えめの回答でもあった。ところが、集計の結果は、3000円はたった一軒だけ、しかもダントツの高額だった。どの家も控えめの回答であることは予想されはするものの、月額500円や1000円程度の金額に集中するあまりの低額に驚かされた。
実は、近所の幼なじみの子が同級生だった。この家は約150台が駐車出来る貸駐車場を営んでいて、今の金額でざっと月額200万円程度の収入がある金持ちである。その同級生は、発売されるテレビゲームのソフトのほとんどを買い与えられていたのをこの目で確認していて、著しい虚偽の申告であることは明白なのである。
  アドラー心理学では、子供達の自己管理を重視する。子供達の発達段階に応じて、家族会議を開いて、家族員全員の小遣いを家族全員で決めることを推奨する。我が家では、子供達には親の社会的生活の実情が理解できないだろうと考えて、親の分まで会議で決めることはしなかったが、子供達の小遣いは話し合いを行って決めていた。その金額が 3000円、今の価値で5000円程度だったのである。
「買う」という経済行為は、物を得る喜びと同時に、手持ちの金が無くなるという喪失の空しさを味わう行為でもある。しかも、物の価格は大人にとっても子供にとっても 全く同一である。子供が欲しいという都度買い与えていては、この喪失感を味わうこと が出来ない。発達段階に応じて、一日、一週、一か月と可能な限り、長い期間を自己管理させることが重要なのである。そして、買い物は出来るだけ広範囲で自分の金でさせることが重要である。というわけで、我が家では誕生日やクリスマス等のプレゼントは別にして、自分で買いたい物は自分の金で買うようにさせていた。
因みに、中学校時代は5000円だったが、高校の時は3000円と減額となった。高校生にもなると、その程度しか必要がないと言い出すようになった。ついでに大学の時には、授業料も含めて半年分の生活費を一度に送金した。子供達は常に節約をしなければならない心境だとして必ずしも歓迎しなかったが、この頃には子供の金銭管理能力について完全に信頼できるようになっていた。

収集欲

 幼稚園の年中組辺りから小学校の中学年のころにかけて、子供達は物集めに夢中になる時期がある。大人から見ると、「なんだこんなもの」と思うものに夢中になっててしまう。女の子よりも男の子のほうがその傾向が強い。我が子らも例外ではなく、最初はチョコレート菓子の付録に付いているカードそして、後にキン肉マン消しゴムであった。
 カードには、金や銀で出来た特別のカードがあり、これがなかなか入手できない。同様にキン肉マン消しゴムは、ヒーロー物が数少なくしてある。収集の初期はそれなりに揃ってゆくが、最後の数枚となると簡単に揃わない。買っても買っても、既に手元にあるカードばかり出てくる。落胆する子供達の顔を見ている親にも辛いものがある。
 ある日、私は田舎町に出張に出かけた。帰りのバス停の近くに駄菓子屋があった。発車時刻まで時間があったので、何気なく店を覗いてみると、例のカードが入ったチョコレート菓子があった。開封していない箱の在庫があるか聞いてみると、店の奥から二箱持ってきた。私はその二箱を買った。子供達が喜んだのは言うまでもない。次から次と開封し、遂に、待ち望んでいたカードが出てきた。思い返せば、親馬鹿の極みであり、冷や汗が出てくる境地である。子供の関心は別のものに移ろってゆく。
 我々の子供の時代は切手の収集がそれに当たる。物欲のひとつである収集欲、これは一時期誰でも陥る、いわば本能とさえ言って良いものである。子供時代にこの欲求を十分満たされていなかったり、何らかの事情でこれに固執してしまうと、大人になってから、とんでもない形でこれが露出してくる。極端な例では、異性の下着やAVビデオ等のコレクションがこれに当たる。もっとも、学者のデーターの集積や金持ちの美術品の収集等のように、望ましい形で現れる場合もある。
 キン肉マン消しゴムは集めに集め、大きなバケツ満杯になった。それから子供達が高校生や中学生になったころ、子供達の了解を取って廃棄した。このキン肉マン消しゴムは、収集家の間で高額で取り引きされているそうである。長男は、「もしあれが取ってあれば、凄いお金になったのにね」と悪戯っぽい笑顔を親に向ける。 

叱責と「論理的結末」

 これは順番が前後してしまったが、私がアドラー心理学と出会う前の次男が3歳のころまでの話である。拙宅は一戸建てではあったが中心街にあり、敷地が狭く、庭らしい庭はなかった。活動的な遊びが好きなこの時期は、家の中で暴れると言う表現の遊びがあった。そのひとつが、障子破りである。私の父は非常に几帳面で、整理整頓の面で実にきちんとした人であった。子供達が障子を破ると、すぐにその補修を自らの手で行っていた。また、父は孫を滅多に叱らない人でもあった。長男と次男は、故意に障子を破いて、アハハハ と笑い転げて喜んでいた。私の父は多少の注意をしたり、私の母も嘆 いてはいたが、感情的になって怒ることはなかった。今になってみると、大したものだ と思う。孫に対する愛情が激怒を抑えていたのだと思う。付け加えておくと、私達が子供のころに、いつまでも玩具で遊んでいると、買ったばかりの玩具を壊してしまうなど、若いころは、短気な一面があったのにである。
 私達親は仕事から帰宅したときには、大概は綺麗に補修された状態だったため、もうひとつ深刻には受けとめられず、激しい叱責を加えるとことがなかった。
 長男の話であるが、足漕ぎ式の自動車を家の中で乗り回し、新築して数年しか経過しない和室の京壁を1メートル四方、落としてしまったこともあった。それでも私達は、子供達を激しく叱責することはなかった。
 アドラー心理学の立場では、「論理的結末」と呼ばれる手法を使えと教える。すなわち、叱ったり、罰を与えるのではなく、双方が冷静なときに、行為の結果や将来予測される現象を冷静に説明し、本人に行為を選択させるべきだと考える。
 アドラー心理学と出会う前の私達は、このような手法を取ることはなかったが、いつ の間にか障子破りは消失し、京壁を2度と落とすことはなかった。
 なお、断っておきたいが、障子破りは頻繁でも、襖については破ることがなかった。子供は何が許され、何が許されないものなのか、子供の目でよく見ているものだとつくづく感心する。

勇気づけ

 アドラー心理学の中核になっているのは「勇気づけ」である。我々は日常生活の中で 存在や価値を否定されることは、しょっちゅう起こっている。「何やっているんだ」「駄目じゃないか」「早いしろ」「何だその成績は」、枚挙に暇がない。なお、交流分析学では、人の価値を下げるコミュニケーションを「マイナスのストローク」と呼び、逆に価値を上げるコミュニケーションを「プラスのストローク」と呼んでいるが、この「マイナスのストローク」が実に多いのである。「勇気づけ」は、この「プラスのストローク」を重視する。
 容貌にせよ、運動能力や知的能力にせよ、突出したものを持っているのは、限られた者だけであり、大部分はごく平凡である。人はその平凡な自分に価値を置き、自信を持ち、そして、自分を好きになれないと幸せには生きられない。集団の中で、寄ってたかってある人物を否定するような言動を与えてゆくと、その人物は、いとも簡単に引きこもったり、精神的障害に陥ったり、非行や犯罪などの逸脱行動に走ったりするものである。
アドラー心理学や交流分析に限らず、カウンセリング理論の多くは、あるがままの自分を肯定的に受け入れられるよう援助することを目標に据えているのであって、決してアドラー心理学の専売特許ではない。ただ、親子関係の中で、「勇気づけ」を中核に置いて、子供によいことがあれば、親の喜びを伝達するという子育て理論は、その方法が 具体的で分かりやすい。
 客観的な評価を伴う、また、統率や規律を必要とする学校等の集団生活の中で、特別な能力を持つ者以外は、簡単には「プラスのストローク」は得られない。我が子を誰よりも愛する親がこれを為さずして誰が行うのか、行ってくれるのであろうか。

アドラー心理学との出逢い

 A.アドラーと出会ったのは長男が小学校3年、次男が幼稚園の年中に在籍している頃であった。職場の後輩から、アドラー心理学講座の受講を誘われた。その講座は約2ヶ月間、土曜、日曜日に東京で開かれた。私達は東京に宿泊しながらこれに参加した。
 アドラー心理学学会の会長は、当時私が勤務していた職場の医務室技官をしていて、私と同職の者にも一定の数の信奉者があった。講師は主要なものは会長が務めた。
 講座は、必ずしも私や一緒に通った後輩の要望を満足するものではなかった。その人格理解は、基本的には類型把握を中心にしていたし、大衆の前で行うオープンカウンセリングの手法は、相容れないものを感じた。しかし、次の数点だけは共感するものがあった。
 それは親子の関係に関するものだった。アドラー心理学では、上下関係ではなく、横の関係を理想とする。しかし、親が経済を握っているが故に、親子関係は対等にはなり得ないと考える。よって、親はそのことを意識し、横の関係になるようにしなければならない。「禁止」や「命令」、そして「叱責」は、上位にあるものの行為であると考える。
 同時に「賞賛」も上位者の下位にある者への行為であると考える。部長が課長を「よくやったと」誉めて時には、課長はこれを喜びとして受け入れるが、部長に対して課長が「よくやりましたね」と誉めたときには、部長は必ずしも受け入れられないものがあるという論法で、「賞賛」を否定する。その代わり、喜びの伝達を提案する。つまり、何か子供によいことがあったときには、親は嬉しい気持ちになる。その嬉しい気持ちを、子供に大げさなくらいに表現すべきだとする。この手法は、実は「賞賛」と大した違いはない。要は平素の親子関係の問題であると解釈した。
 アドラー学派の子育て理論は、私達夫婦のそれまでの子育ての姿勢と大きな違いはなかった。人は自分と全く違ったものは、容易には受け入れられないものである。元々持っている姿勢、信念にかなり近接しているからこそ、受け入れられたのである。
 私は、妻に参考書を与えながら学んできたことを説明し、今後はこの方針でやってゆきたいと提案した。ありがたいことに妻は簡単にこれを受け入れた。 
 

テレビゲーム

  長男が小学校に入学して間もなく、テレビゲーム「ファミリーコンピューター」を買った。当時は、セガと任天堂がテレビゲームを発売したばかりであり、どちらが主流になるのか判然としない時期だった。選択は子供に任せたが、長男は任天堂のファミコンを選択した。

当然、長男はこれに夢中になっていった。拙宅には、当時テレビが2台あり、1台は私の両親と共同で使っている居間に、もう1台は子供部屋にあった。テレビゲームは居間に設置された。そのため、暫くは親が帰宅するまでの数時間だけの使用であった。

ファミコンが「スーパーファミコン」に変わり、「ファイナルファンタジー」等のアドベンチャーゲームなどが発売されるに従って、ファミコンは爆発的なヒット商品となり、子供達にはなくてはならないアイテムとなっていった。次第にファミコンは2階の子供部屋でも使用されるようになっていった。友人達も集まってこれで遊ぶことも多くなったが、幸いなことに、必ずしもこれだけに偏ることもなかった。友人が多数集まるので、外に出ての遊びをせざるを得ない面も見られた。

私達親は特にテレビゲームを制限することはなかった。共稼ぎの私達に代わって、親が帰宅するまで、私の両親が子供の世話をしていたが、夕方の数時間、様々な家事がある私の母親にとって、一時とは言え、子供達から手が放れるテレビゲームは、ある意味便利という側面があったし、また、私達親も、男の子供にとって、テレビゲームのない所での交友も特殊になりすぎると、流暢に考えている側面もあった。

長男も、後に次男も、「ファミコン博士」であった。アドベンチャーゲームでは、攻略本を買ってきて、裏技などを研究し、級友の中でも最も早くゴールに辿り着いた。友人からしょっちゅう電話がかかってきて、様々な友人の質問に答えていた。

子供達は、私達親が帰宅してからは、あまりテレビゲームをすることがなかった。子供達にとって、親と共に夕食を摂り、風呂に入り、テレビを見て、たわいない話をする日常の方が、楽しかったからだと思っている。

頑張り屋の次男

 次男が幼稚園の年少か年中に在園している時に、子供会で矢板市の県民の森から塩原温泉に抜ける山道をハイキングする行事があり、長男に伴って次男もこれに出席した。 山道は小学校低学年の児童にはやや厳しく、距離も長かった。次男は自分の腰ほどもある山の階段を精一杯足を上げて登っていった。兄とその友人は先頭を歩こうとし、次男はそれに負けじと先頭を争う様相だった。

 長男が3歳の時に、尾瀬のハイキングに連れていった時のこと、長男は歩き疲れて尾瀬沼で寝てしまい、その後、かなりの長距離を背負って帰ってきた体験があった。その体験から、同様の事態になることも覚悟はしていた。ところが結果的に次男は最後まで自分の力で歩き通した。しかも、1番最初にゴールに辿り着いた。

 次男は、兄やその友人と一緒になると、気分が発揚し、凄い力が出るようであった。
 小学校1年生の時の初めての個人懇談でのこと。担任の先生から次男が書いた絵を見せられた。その絵はなんと4枚がセロハンテープで繋がれた絵であった。

 「先生、紙が足りませんというので、渡したらこんなことになりました」

 との説明であった。その絵を見ると、動きがあって実に活き活きしていた。

  長男も絵は得意で、美術展にはいつも金賞や銀賞を取る常連だった。実に精密で、手を抜かない作風だった。一方、次男には精密さには欠けるが、物事に制約されない自由さがあった。私は次男にほとばしるエネルギーを感じた。

次男の幼稚園入園

 次男も長男と同様、3歳児の時に長男と同じ幼稚園に入園した。
 入園早々、市内の出張で幼稚園の前を通りかかった。何気なく園庭を見てみると、何故か次男だけが庭で腰を下ろして、地面に何か書いていた。先生もいないし、園児もいない。いったいどうなっているのかと思いながら、園を後にした。

  その1週間後、たまたま担任の先生と会う機会があって、そのことを話題にして聞いてみた。あの時間、幼稚園では、園児を敷地内の御堂に集め、お参りをしていた。ところが、次男はそれを嫌がって御堂に入ることを拒否していたことが分かった。担任は

 「強制はしない方針なんですよね。ま、その内に入るでしょうから、それまでは自由にさせているんです。」

とのことだった。次男は暗いところが嫌だったらしい。

 ついでにここで書いてしまうが、次男が小学校に入学して間もなくの授業参観に私が出席した。次男は授業中、横座りに座って、前と後ろの友だちと無駄話をし、ろくに先生の話を聞いていなかった。それが一時ではなく、授業中ずっと。先生が注意しても一向に効果がなかった。親としては恥ずかしくて、穴にでも入りたい心境だった。先生もやりづらいだろうと同情したい気持ちに陥った。

 当時、というか、ずっとではあるが、次男が東京大学に30人前後合格する県内随一の名門高校にまさか1番で合格するとは夢にも思っていなかった。

兄弟仲

 長男と次男はちょうど4歳違いである。これだけ離れると、兄弟らしい関わりが出来ないかも知れないとの危惧を抱いていた。しかし、実際には正に杞憂だった。兄弟喧嘩することもほとんどなく、長男が次男の面倒をよく見、次男は長男を慕っていた。
 
  長男は多数の友人を自宅に招き寄せていたが、次男の方は自宅近くの数人の友人と親しくはしていたが、長男のように多数の友人を集めるとことはなかった。というのは、次男は家に集まってくる長男の友人と一緒になって、遊ぶことが多く、それで満足する部分があったからではないかと想像している。
 
  私も弟との二人兄弟で、友人との遊びに弟が付いてくるのは好きでなかった。危険な遊びもあり、弟を守る自信がなく、足手まといとなる感覚があった。長男にも同じ気持ちがあるのではないかと思いながら、その動きを見ていたが、嫌がる様子は見せなかった。次男は長男の友人らの遊びを一緒にやろうとするが、発達段階として、どうみても無理な遊びも少なくなかった。次男は思うようにならず、癇癪を起こして、長男の友人にかかって行ったり、泣いたりしていたが、長男も、その友人らもよく次男の面倒を見ていた。

  これはずっと後の、長男が高校生、次男が中学生のころの印象だが、次男が勉強で分からないことがあると、長男によく聞きに行っていた。長男も自分の勉強をさておいても次男の家庭教師役を務めていた。

  母親、つまり私の妻は小学校教師をしていたが、教師というと家庭でも我が子に勉強を教えているイメージがあるかと思うが、作文を見たり、絵画を見たりすることはあっても、日常の勉強を教えるということは、ほとんどなかった。職場だけで精一杯という感じである。

 次男にとって、家庭での先生は間違いなく長男であった。

学校好きの長男

  長男は早朝に登校していた。「まだ校舎が空いていないんじゃないの」と聞くと、皆でドッチボールをやるのだということだった。進級と共にドッチボールがフットボールに変わり、ソフトボール、軟式野球へと変わっていった。
長男が2年生のころ、知人から、「かつて息子が使っていたものだが」として、本格的なキャッチャーミットとグラブを譲り受けた。これを使って、父息子のキャッチボールを始めた。ボールのやりとりは、単にボールの行き来だけではなく、心の交換そのものでもあった。私は野球は得意ではなかったが、次第にそれなりの成長をして、職場のソフトボールの対抗試合では、選手として出場するようになった。ポジションはキャッチャーである。

健康に不安を抱える長男は学童野球には加入しなかったが、高学年になると野球好きの仲間でチームを作った。それに触発されて、他のクラスにも野球チームが出来て、対戦するようにもなった。長男のポジションも同じくキャッチャーだった。勝ったの負けたのと大変な熱の入れようだった。このころの作文に、野球の話がよく出てきていた。

幼稚園時代は、女の子の友だちも自宅に遊びに来ていたが、小学生になると、遊びに来る者は男だけになっていった。その数も多く9畳の子供部屋は、友だちで一杯だった。ある者はテレビゲームをし、ある者は漫画を読み、思い思いの遊びをしていると思うと、バットとボールを持って、近くの公園や学校に繰り出した。


長男は幼稚園時代から、ずっと一貫して遊びの中心にいた。
 長男が大学生のころに、当時の回想として次のように述べたことがあった。
「僕はいつも遊びの中心にいたよね。そうすると見栄も働くんだよね。勉強も出来ないと格好が付かないとね。それで、程々には勉強しようという気持ちになっていた。」と。
  

習いもの

書道、珠算、ピアノ、水泳、剣道、空手等々、習いものは数多いが、我が家では、ほんの少ししか習いものをさせなかった。というより、させることが出来なかった。

 私は金槌に近い水泳音痴である。私が生まれた昭和24年はまだ戦後のどさくさのころで、学校にはプールはなく、海無し県のため、唯一川が泳ぐ場所だった。私が小学校2年生の途中まで過ごした家の近くには、田川という川があったが、直ぐ近くに砂利の採掘をしている場所があり、子供達が何人も深みに入って死んでいた。そのため親が川での水泳を好まなかった。高校に入学してようやく学校にプールがあった。高校では25メートルを泳げない者は、夏休みの特訓を強要され、それなりに水泳能力が開発された。しかし、これを回避したい私はなんとか25メートルを泳ぎ切り、その特訓を免れて、水泳を覚える機会を逸した。そのため、我が子には何とか水泳を学ばせたかった。

 長男が幼稚園の年長の時に水泳教室に入れた。本人は喜んでやっていたが、小学校1年生の健康診断で僅かな潜血が発見された。腎臓病の可能性も否定できない、腎臓を冷やす水泳はやめた方が無難、との医師の助言でこれをやめた。約1年間の教室通いであった。

 次男は年中組の時に、幼稚園の中で行われていた河合楽器の音楽教室に通うようになった。幼稚園の幼児のほとんどがこれに参加しているのが実態だった。ところが、年中になると同時に、個別のピアノ教室に移行となったが、次男は遊びの方が楽しくて、間もなくやめてしまった。これも1年間だった。

 次男が音楽教室に通い始めて間もなく、長男が幼稚園で行っているピアノ教室に通いたいと言い出した。私は元々長男にももっと早くピアノを初め、何か習わせたかったが、長男はどこに連れて行ってもやらないよと拒否的で、結局、水泳教室の後は、暫く何も習うことがなかった。何故急にピアノをやりたいと言い出したのか分からないが、即、希望を実現した。長男はその後、高校3年生の2学期末までピアノをやめなかった。そして、大学ではバイオリンを始め、3年生の時には団長も務めた。そして、職業を持ってからも交響楽団に所属して、バイオリンを続けている。

 同じ習いものでも、子供が自発的に習いたいと始めたものは長く続いて、その後の人生の中で、自分を楽しませるもの、あるいは自分の武器のひとつとして、大きな意味を持つことになる。
 習い事を始めるのも、やめるのも子供の意思次第というスタイルでこれに対処してきたが、それで良かったと思っている。

寝室

  私達の寝室は襖で仕切られた6畳和室2室だった。その襖を取り払って12畳の和室として使っていた。ここに4組の布団を並べていた。子供達が幼児や児童期には、寝る 順番は決まっておらず、子供達の気分によって決められていた。子供達は先を争って自分の寝る布団を取っていたが、不思議なことに子供達はひとつ置きに寝ていて、空いたところに親夫婦である私達が寝ることになった。

 最初のころは、昔話などをすることが多かった。母親である妻は話が上手で、大げさなくらい感情を込めて話をしていた。成長に従って次第に本を読むようになった。どちらの子供も「晴れ時々豚」が特にお気に入りで、いつも腹を抱えて笑い転げていた。灰谷健次郎氏の作品も好きだった。

 長男が小学校1年生の秋、敬老の日に招待された老人を前に、1年生を代表して作文を読む役割が与えられた。長男は高学年の時に県の教育委員会の作文コンクールで優秀賞を受賞したり、中学校時代には文芸部に入り、高校では作文の校内コンクールで第1席を取ったりしていた。また、次男は作文は得意ではなかったが、高校時代の読書量は凄かった。本を借りてきたり、買ったりしてくると、ほとんどの本は一晩で読み終えていた。集中力が凄まじく、声を掛けても聞こえない程であった。

  これらの作文能力や読書能力は、幼児の時代の読み聞かせが功を奏したように思われる。
子供達が自分の部屋で寝るようになるのは、それぞれが中学生になってからのことだった。それまでは親と寝ていた。過保護と言えば過保護だったが、何しろ親が共稼ぎのため、親子の接触の時間が乏しく、食事、入浴、睡眠の時間は重要な関わりのひとときだったのである。

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