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通信添削

  長男は親友の誘いで「Z会」に入った。東大の合格者の半数以上がやっているという通信添削の会社である。レベルに併せていくつかのコースがあるらしいが、メインの最も難しいコースを選択した。全国一律のため、在籍する高校が採用する教科書とは、登場する順番が異なり、自主勉強を余儀なくされる。長男は家庭学習のうち、これに多くの時間をかけるようになった。

 性格的なものもあるのだろうが、長男はすべての問題に解答しようとする。どうしても問題を解けず、期限に遅れるは屡々で、ついに提出しないことも希ではなかった。長男の健康に心配する私は無理なのではないかと、口にもでかかったが、無理をしないように、と助言を与えるだけで見守っていた。
提出せず、添削を受けない問題が貯まっていっても、そのことを咎めることはなかった。

 兄弟間の性格の違いを痛感したのは、この「Z会」への態度であった。次男は高校に入って、極当然のように「Z会」に入った。次男はパッパッと短時間で片づけ、分からないものはさっと諦めて、白紙は白紙のまま、提出していた。期限遅れも、未提出もなかった。決して完璧を自分に求めなかった。
ある意味、淡泊なのである。

 地方都市に居住していると、適当な塾とか予備校とかがなく、そういう意味では通信添削は便利である。教えてくれるという側面はほとんどないが、勉強は自分でするものである。その意味で、自主性を育てるには、実に最適である。





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理系?文系?

 長男の高校では、2年生に進級する際に、理系と文系に分かれる。1年生の3学期にその意思表示をしなければならない。長男はこの時期、弁護士か医師に職業選択を絞っていたが、どちらにすべきか漠然としていた。

 弁護士になるには司法試験を受け、司法研修所の2年間の研修を受けなければならない。仮に司法試験に合格したとして、持病がある長男が果たして研修所に入所できるかどうか、不安を持った。
私は最高裁判所人事局任用課と研修所に電話して、長男の病状を説明し、入所に支障があるかどうか問い合わせした。どちらの答えも、結論的には「分からない」であった。官僚というものは、優秀であればあるほど、責任回避をするものであり、言質を取られないように、無難な解答をするものである。他に照会をする場所も他にない。当時の司法試験は、合格者が500人とかなり難しく、国家試験の中では一番難関と言われていた。勉学に励み、合格しても、研修所に入所出来なければ、結果的に将来を閉ざされる。私は照会の結果をそのまま長男に伝えた。長男は結局、理系への進級を決意した。

 国語系や社会系が得意で、数学が最も苦手だったので、親としては内心、一抹の不安どころか、大きな不安を隠せなかった。長男は、部活動は将棋部に入っていたが、間もなく部活動のひとつである数学研究会にも入った。それを聞いて、私は小学校時代の自分を思いだした。

 私は小学校時代、小児喘息の持病があり、病弱のほうだった。短距離走やジャンプ系は得意だったが、球技や器械運動が苦手だった。私は小学校6年生の時に、敢えて体操クラブに入部した。不得意の分野を克服したいという願望がなせる技であった。ついてゆくのがやっという惨状だったが、中学校では何とサッカー部に入り、1年生からレギュラー入りした。

 長男も私と同じことをしている、似てる、と一人悦に入った。
長男は次第に数学が得意教科になっていった。



学習塾で

次男が中学校時代に最も慕っていたのは、塾の講師だった。脱線が多く、面白いんだと言っていた。ボデイビルをやっているということで、その講師がコンテストに出場した時には、友人数名と応援に駆けつけた。

次男がこの塾に入って間もなく受けたテストでは、10数番の成績だった。小学校時代は、クラスの中では抜群の成績だった。ある時にインフルエンザで1週間程度、学校を休んだ。その間に全国学力テストがあった。担任から何度も電話で病状を聞いてきた。私はどうぞテストをやってくださるようにと頼んだが、担任はどうしても次男に受けて欲しい、出席出来るまで、テストの実施を遅らせるとのことことだった。だから、10数番という結果は、多少意外の印象を持った。塾での保護者懇談では、成績上位者は、小学校低学年から我が塾に通ってきていた生徒ばかりですから、これは凄い成績ですとは言っていた。それがテストの度に飛躍的に伸びて、あっという間にトップになった。

 塾では年に1回保護者懇談があって、塾に呼ばれるが、3年生の時に私が「高校に10番以内で入れるようならよいのですけどね」と洩らしたところ、塾長は「十分可能です。塾としても、そうなるよう努力します」と述べていた。それを聞いて、私は、「え、」と思った。

 長男も中学校の中では次男と似たり寄ったりの成績だったが、高校では平均の成績ではそこまでゆかなかったからである。中学校は数が多い。在籍する中学校で仮にトップだとしても、高校に入学すれば、必ずしもトップクラスにはなれないし、唯の人ということも珍しくないのである。それを熟知していた。



担任はいずこへ

 子ども達のアルバムを見てみると、幼児期、児童期の写真は沢山あるが、中学生以降の写真は、ずっと少なくなる。こうやって子育て回想録を書いていて、中学校時代や高校生時代の思い出すエピソードがあまりないことに、今更ながらに気付かされる。それだけ子が親から自立し、自分の世界を持ってゆくことの現れかと思われる。

 次男の中学校2年、3年の担任は印象的な教師であった。30歳前後の女性で、美人タイプだった。家庭訪問に姿を見せたときは、スポーツタイプの車に乗ってきた。玄関に脱がれた白のハイヒールはイブサンローランのものであった。3年生の3学期の始めころだった。この教師が突然姿を消し、緊急連絡網等の電話連絡が担任ではなく、学年主任から連絡が来るようになった。 たまたま電話を受けた私が担任の先生はどうされたのかと質問したところ、学年主任は「私にも分からないんです」とバツが悪そうな感じで答えた。

 時期はちょうど高校受験の願書を出す時期であった。どんなに成績がよかろうと、願書が提出されないでは、受験さえ出来ない。ちょっと不安になった。折しも、県内のある中学校の生徒指導主任が、同僚教師と出奔し、それが学校の写真入りで報道されたことがあったが、それから間もない時期だったので、余計な不安が湧いてきたのである。しかし、私の記憶では2週間程度で復職した。一安心したが、それでも懐いていた不安は完全には払拭できなかった。

 私の地域は成人式を出身中学校単位で行っている。中学校を卒業して5年後という時期である。
担任の教師がこれに招待されるが、学年の教師の中で、唯一人出席しなかった。高校時代に行った同級会にも姿を見せなかった。

 思春期の真っ直中である中学校の教師の役割は大きく、その一挙手一動で、生徒が伸びたり、躓いたりする。そして、在学中だけではなく、卒業後も為すべきことが続く。思い起こせば、様々な教師との出逢いがあった。不幸にして恵まれない教師との出逢った時に、親の役割が大きくなるが、振り返ると、特にその役割を果たさざるを得ないような出逢いはないまま、学校生活を終えた模様である。

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